鯨をしるべに、
まちの鼓動を興す
江戸時代、捕鯨によって栄えた呼子町。
「鯨一頭で七浦潤う」
一頭の鯨が七つの漁村を豊かにするといわれ、
多くの人々が集い「鯨組」が形成されました。
時が流れ、かつての姿が影を潜めた今。
その誇りを受け継ぎ、もう一度熱気を呼び覚ますために。
この地にとって潤いと活気の象徴である
鯨をしるべに町興しが始まります。
一人ひとりの想いが交わり、やがて大きなうねりとなる。
この挑戦が、呼子に新たな息吹を吹き込みます。
江戸時代、捕鯨によって栄えた呼子町。
「鯨一頭で七浦潤う」
一頭の鯨が七つの漁村を豊かにするといわれ、
多くの人々が集い「鯨組」が形成されました。
時が流れ、かつての姿が影を潜めた今。
その誇りを受け継ぎ、もう一度熱気を呼び覚ますために。
この地にとって潤いと活気の象徴である
鯨をしるべに町興しが始まります。
一人ひとりの想いが交わり、やがて大きなうねりとなる。
この挑戦が、呼子に新たな息吹を吹き込みます。
所蔵:鯨組主 中尾家屋敷|『肥前国産物図考 小児の弄鯨一件の巻』より、クジラ解体の様子を引用
江戸時代、佐賀県唐津市呼子町は、国内有数の捕鯨基地として賑わっていました。多くの人が集まり、鯨組という組織が形成され、「鯨一頭で七浦潤う」−−−つまり鯨が一頭獲れれば七つの漁村が豊かになると言われたほどで、その潤いは唐津まで行き渡ったとされています。
漁に出る前には祈りを捧げる祭りが催され、捕鯨のシーズンが終わると、鯨に一頭ずつ戒名を授け、供養のための墓を立てていました。それは鯨によって生かされていることへの感謝であり、敬意でもあったのです。鯨は呼子にとって、繁栄、活気、希望。そして共生の象徴でした。
中尾家は江戸時代から170年に渡り捕鯨業を営んだ一家で、中尾甚六はその初代当主。呼子の捕鯨を語るには外せない存在です。「中尾様には及びもないがせめてなりたや殿様に」と歌った俗謡があるほど、一時期は地元の藩主をも凌ぐ勢いで繁栄を極めていたとされ、江戸にもその名が知れ渡っていました。
呼子は、昔ながらの美しい町並みが残る港町。その歴史ある景観を未来へ受け継ぐため、「重要伝統的建造物群保存地区」を目指す取り組みが進められています。一方で、人口減少や高齢化の影響により空き家が増え、「呼子朝市通り」の出店者も減少。町の活気は少しずつ失われつつあります。かつて呼子に繁栄をもたらした中尾甚六の名を受け継ぎ、「現代の鯨組」が立ち上がります。呼子に再び火を灯し、その鼓動を国内外へと広げていきます。